| 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ) |
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1892-1927(明治25-昭和2)。小説家。東京生まれ。東大英文科卒。 在学中は夏目漱石の門に入り、久米正雄・菊地寛らと第3・4次「新思潮」の同人となり、「鼻」「羅生門」などで文壇に認められた。歴史小説から出発し、歴史に近代的解釈を下して逆説的な人間感を示そうとする理知的作風を主とした。芸術至上の態度が強かったが、晩年には時代の動きを敏感に感じて動揺し神経衰弱など体力の衰えも加わり自殺。 |
| 足利尊氏(あしかがたかうじ) |
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1305-1358。室町幕府初代の将軍。貞氏の子。初名は高氏。 源氏再興の志をいだき、元弘の乱で幕府軍として西上した時、丹波桑田郡篠村八幡宮で反旗をあげ、六波羅探題を滅ぼした。建武新政第一の功臣として参議・武蔵守となり後醍醐天皇の名の一字を賜り尊氏と改名。1335北条時行の乱鎮圧の為鎌倉に下り、次いで新田義貞征伐を名目として建武政権にそむき上京。翌年北畠顕家らに敗れ、九州に落ちたが、直ちに再挙東上して湊川に楠木正成らを破り、京都に入って光明天皇を擁立、1338征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開設。後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝の乱となる。のち弟の直義と対立して、これを毒殺。直義の子直冬の九州における反抗を鎮圧する計画中に病死した。禅僧夢窓疎石に帰依し、天竜寺のほか全国に安国寺利生塔を建立。 |
| 有島武郎(ありしまたけお) |
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1878-1923(明治11-大正12)。小説家。東京生まれ。 学習院中等科を経て札幌農学校卒。農学校時代にキリスト教に入り、1903(明治36)ハーバード大学に留学、ヨーロッパを歴遊して1907に帰国、母校の教職に就いた。この間、ホイットマン・ツルゲーネフ・トルストイ・クロポトキンに傾倒し社会主義に関心を持つ。1910「白樺」創刊に加わり、1917(大正6)以後本格的リアリズムの作風により文壇的地位を確立した。労働者階級の発展にブルジョア出身の知識人は寄与し得ないとし、父の創設した北海道の農場を小作人に開放するなど社会的にも注目を浴びたが、1923軽井沢で波多野秋子と情死。代表作「カインの末裔」「或る女」など。 |
| 泉鏡花(いずみきょうか) |
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1873-1939(明治6-昭和14)。小説家。名前は鏡太郎。金沢市の生まれ。 1890(明治23)上京、尾崎紅葉の門に入る。観念小説から出発して、浪漫的・神秘的作風に転じ、独自の境地を開いた。著作「照葉狂言」「高野聖」「婦系図」「歌行燈」など。のちに新派劇によって多く上演された。 |
| 川端康成(かわばたやすなり) |
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1899-1972(明治32-昭和47)。小説家。大阪生まれ。東大卒。 在学中「文芸春秋」の同人に加えられ、1924(大正13)「文芸時代」を横光利一らと創刊、新感覚派の代表的作家として登場。「雪国」でその資質を開花させた。戦中も時局に迎合せず、戦後の代表作には「千羽鶴」「山の音」などがある。1961(昭和36)文化勲章、1968ノーベル文学賞受賞。1972年4月自殺。 |
| 国木田独歩(くにきだどっぽ) |
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1871-1908(明治4-41)。千葉県生まれ。東京専門学校中退。 在学中キリスト教に入り、政治にも関心を持ったが、その人間性喪失に失望して帰郷。日清戦争にあたり国民新聞社の従軍記者となり 、「愛弟通信」で注目された。散文詩的短編集「武蔵野」で文壇に出たが、次第に社会から取り残された人々の性格描写を中心として独自の作風を築き、晩年には社会批判の方向を示した。著書に「運命」、日記「欺かざるの記」がある。 |
| 静御前(しずかごぜん) |
| 京の白拍子に義経の妾。母は磯禅師。義経が頼朝と不和になり、京から逃れた時、吉野山で捕らえられ鎌倉に送られてきた。義経の子を宿していたが、男児であったため頼朝の命令で由比ケ浜に沈めさせられ、のち帰京。 また頼朝夫妻の求めにより鶴岡八幡宮の回廊で歌舞し、義経を恋う歌を歌った話は有名。 |
| 島崎藤村(しまざきとうそん) |
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1872-1943(明治5-昭和18)。詩人・小説家。本名春樹。長野県生まれ。明治学院卒。 在学中キリスト教に入り北村透谷の影響を受け、1893(明治26)「文学界」創刊に参加した。詩人として出発し、自我の要求と苦悩を浪漫的にうたい、1897「若菜集」以下4冊の詩集を出版、近代詩の開化として注目された。のち散文に転じ、1906「破戒」を発表、部落出身者の苦悩と内面の真実を追求し、自然主義文学の先駆とされ、以後「春」「家」「桜の実の熟する時」「新生」などを発表、現実凝視と自己解剖で独自の文学を形成した。昭和に入ってからは歴史小説の大作「夜明け前」を完成。1943から「東方の門」を発表しはじめたが死で中絶。童話・紀行・随筆にも多くの作品を残した。 |
| 高浜虚子(たかはまきょし) |
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1874-1959(明治7-昭和34)。俳人・小説家。名は清。愛媛県の生まれ。 ニ高中退。河東碧梧桐とともに正岡子規門下の双璧。俳誌「ホトトギス」主宰。「風流懺法」「俳諧師」など余裕派小説も書いたが、俳句に戻り、碧梧桐系統の新傾向句に対し、定型と季題の伝統のもとに「花鳥諷詠」を説き、大正・昭和の俳句の骨格を樹立。子規の革新のあとを受けて50年間、現代俳句を育てた。芸術院会員。1954文化勲章受章。 |
| 夏目漱石(なつめそうせき) |
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1867-1916(慶応3-大正5)小説家。名は金之助。東京生まれ。東大英文科卒。 東京高師・松山中学・五高教師を経てイギリスに留学。帰国後一高教授。1905(明治38)「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発表、一躍文名をあげ、続いて「坊ちゃん」「草枕」など諸作を発表。1907朝日新聞に入社。当時隆盛だった自然主義と対立し高踏的・観照的に人生を眺めようとする立場から出発したが、「三四郎」「それから」「門」の三部作では心理的な作風を示し、「彼岸過迄」「行人」「道草」「こゝろ」などで自我を鋭く分析、近代的教養人の内面に巣くう利己主義をえぐりだし、「明暗」では自我を越えた則天去私の世界を志向ともいわれるが、未完のまま病死。 |
| 新田義貞(にったよしさだ) |
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1301-1338。鎌倉末期・南北朝時代の武将。朝氏の子。 元弘の乱に千早城攻撃に参加したが帰国して挙兵、 鎌倉を攻撃して幕府を滅ぼした。建武政権から上野・越後・播磨を知行国として与えられ、またその武者所頭人となったが、足利尊氏と対立、1335箱根竹の下に戦って敗れ、翌年九州から上洛する尊氏を兵庫に防いでまた敗れ、皇太子恒良親王を奉じて北陸に下り、越前金崎によったが落城。脱出して再挙を図ったが、1338藤島で斯波高経と戦って討ち死にした。 |
| 日蓮(にちれん) |
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1222-1282(貞応1-弘安5)。鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房の人。 12歳で安房清澄山に登って天台宗を学び、長じて鎌倉・比叡山・南郡・高野山などで修行し、仏法の真髄が「法華経」にあることを悟り、1253(建長5)清澄山に帰り日蓮宗を開いた。日蓮宗は厳しく他宗を攻撃、論破したので他宗の圧迫を受けたが屈せず、1260(文応1)には「立正安国論」を著わして幕府に献じ、「法華経」を信じなければ国難が来ると予言、諸宗を責め、幕政を批判してので、伊豆に流された。やがて許されのちも依然言動を改めず、1271(文永8)に佐渡に流された。1274年に許されて甲斐身延山隠棲、1282(弘安5)武蔵池上に行き死亡。死の直前に本弟子6人(六老)を定めた。著書「開日鈔」「歓心本尊鈔」。 |
| 源実朝(みなもとのさねとも) |
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1192-1219(建久3-承久1)。鎌倉幕府3代将軍。頼朝の2男。幼名千幡。 幕府の実権は北条氏に移っていたので、実朝は官位昇進だけを望み、右大臣に進んだが、鶴岡八幡宮で拝賀の儀を行った際、おい公暁に殺された。 |
| 源範頼(みなもとののりより) |
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平安末期・鎌倉初期の武将。義朝の6子。蒲冠者(がまのかんじゃ)と呼ばれた。 頼朝挙兵に参じ、義仲や平氏追討の一方の武将となる。のちに義経が殺されて以来、頼朝の歓心を得ることに努めたが、伊豆修善寺で殺された。(-1193) |
| 源通親(みなもとのみちちか) |
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1149-1202。鎌倉初期の公卿・歌人。内大臣。正二位。雅通の子。土御門内大臣ともいう。 後鳥羽天皇の乳母藤原範子を妻とし、その先夫の娘在子を養女として後宮に入れ、後白河法皇の寵姫丹後局と結んで勢力を築き、1196(建久7)源頼朝と結んでいた関白九条兼実を追い、次いで外孫土御門天皇をたて、後鳥羽上皇の院別当となって鎌倉幕府に対抗した。また歌人としても優れ、「千載集」以下にその精巧な作風をみることができる。 |
| 源義家(みなもとのよしいえ) |
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1039-1106。源頼義の長男。前9年の役の武功により出羽守に任ぜられた。 その時の手柄話をしたところ、大江匡房に兵法を知らないと評されたが、かえって匡房に師事したという。1083年陸奥守兼鎮守府将軍となり、後3年の役を鎮定したが、朝廷はこれを私闘として功賞を行わなかった ので私財をもって将士をねぎらって東国に源氏の基礎を築いた。財地領主の信望を集め、朝廷では諸国の百姓に義家への田畑の寄進を禁じたほどであった。 |
| 源義経(みなもとのよしつね) |
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1159-1189。義朝の9男。母は常盤。幼名牛若丸・九郎、号は源九郎。 平治の乱の後捕われたが、乳児だったので助命され鞍馬寺に入った。のちに脱出して陸奥の藤原秀衡の保護を受け、1180兄頼朝の挙兵にに応じてこれに属し、1184年に源範頼とともに源義仲を討ち、平氏を一の谷・屋島・壇ノ浦に討って族滅させた。この間、梶原景時と対立、院に接近して頼朝に忌まわれ、ついにおじ行家とともに頼朝に反したが失敗。天才的戦術で平家を滅亡させるが、頼朝の承諾無しに後白河法皇から官位を授かったため追討される。陸奥に潜行し、再び秀衡に頼ったが、秀衡の死後子泰衡に襲われ、30歳にして衣川で自刃した。 |
| 源義仲(みなもとのよしなか) |
| 平安末期・鎌倉初期の武将。義賢の2男。木曽山中で成長したので、木曽義仲とも呼ばれた。以仁王(もちひとおう)の令旨で挙兵、北陸道を西上して寿永2年(1183)入京。東国の頼朝、西国の平氏、天下三分の形勢を作ったが、まもなく後白河法皇と反目して、法性寺に法皇を攻めた。範頼・義経に攻められ、近江栗津原で戦死。(1154-1184) |
| 源頼家(みなもとのよりいえ) |
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鎌倉幕府2代将軍。頼朝の長子。母は北条政子。 正治元年(1199)家督を継いだが、北条氏のため将軍の権限を奪われ、比企能員と北条氏討伐を企てたが失敗し、伊豆修善寺に幽閉され殺された。(1182-1204) |
| 源頼朝(みなもとのよりとも) |
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鎌倉幕府初代将軍。義朝の3男。平治の乱で敗走中に捕われて伊豆の蛭ヶ小島に約20年間も配流。 治承4年(1180)挙兵し、鎌倉に入り、武家政権の基礎を樹立。弟範頼・義経に命じて木曽義仲を討ち、続いて平氏を滅ぼした。のち不和となった義経追補を口実に守護地頭設置の許可を得て武家支配を確立。次いで奥州藤原氏を滅ぼして陸奥・出羽を勢力下にいれた。建久3年(1192)征夷大将軍となった。(1147-1199) |
| 夢窓疎石(むそうそせき) |
| 1275-1351.鎌倉末期・南北朝時代の禅僧。伊勢の人。はじめは天台・真言を修学、のちに禅宗に帰し 一山一寧・高峰顕日に就学。春屋妙葩以下の俊秀を養成して臨済宗の黄金期を築いた。甲斐恵林寺、京都天竜寺などを建立。南禅寺住職2回。また西芳寺・天竜寺・瑞泉寺・恵林寺に残る卓抜な造園技術は有名。 |
| 北条氏 |
| 桓武平氏分流。平貞盛の裔時家が伊豆国北条に住み北条氏を称した。時政は鎌倉幕府創立に尽力し、子孫も代々執権として150年間幕府の実権を掌握、幕政の運営にあたったが、元弘の乱によって滅亡。名越、江間、極楽寺、赤橋、甘縄など多くの支流が有る。 |
| 北条高時(ほうじょうたかとき) |
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1303-1333。鎌倉幕府14代執権。時貞の子。 1316年に執権となったが幼少の為政権はしゅうと時顕や執事長高資らに握られ、政治に乱れは激化し、正中の変・元弘の乱を招いた。1326年に入道して、執権を金沢貞顕に譲った。1331年の元弘の乱には後醍醐天皇を廃して隠岐に流し、光厳天皇を擁立したが、各地の武士の蜂起を押さえられず、1333年5月新田義貞に鎌倉を攻め落とされ、一族と共に東勝寺で自刃した。 |
| 北条時政(ほうじょうときまさ) |
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1138-1215。鎌倉幕府初代執権。時方の子。 源頼朝が伊豆に配流されていた時娘政子を配し、以後頼朝挙兵以来の幕府創業の功臣として重きをなした。頼朝の死後、2代将軍源頼家を廃して謀殺、3代将軍源実朝を擁立し、自らは執権として幕政の実権を掌握、北条氏独裁体制への道を開いたが、実朝を除こうとして失敗、退隠した。 |
| 北条時宗(ほうじょうときむね) |
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1251-1284。鎌倉幕府8代執権。時頼の子。時頼の嫡男。母は北条重時の娘。 1264(文永1)年に連署、1268年に執権となった。この年以降しばしば訪れた蒙古の使いを追い返し、西辺の防備を固め、1274年の蒙古軍の進行に際しては九州の武士を動員してこれを退け、再挙に備えて北九州の沿岸に石塁を築かせた。1281年再度の進行の時も上陸を許さず、進んで中国出兵を計画するなど強硬に幕府を指導した。また深く禅を信じ、宋から無学祖元を招き、1282年円覚寺の開山とした。1284年(弘安7年)3月末、時宗はにわかに発病し、4月4日夕刻34歳の生涯を終えました。2度に渡る元寇では、異国警護役や鎮西探題を設置し、台風にも助けられ防衛に成功。両軍の死者を弔うため円覚寺を創建した。 |
| 北条時頼(ほうじょうときより) |
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1227-1263。鎌倉幕府5代執権。父は時氏。母は松下禅尼。 1246年執権就任とともに前将軍九条時経をめぐる陰謀を事前に押さえ、翌年三浦氏を族滅(宝治合戦)。1249年に引付衆をおいて裁判の敏活公正をはかるなど幕政の発展と、北条氏独裁体制確立に努力した。民政にも意を用い、ために諸国巡回視察の伝説を生じた。禅宗に深く帰依し、蘭渓道隆を開山に招き、建長寺を創建した。若くして執権職を一族の長子に譲ると出家して、諸国を行脚したと「太平記」は伝える。 |
| 北条政子(ほうじょうまさこ) |
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1157-1225。源頼朝の妻。北条時政の娘。 1177年(治承1)21歳で伊豆配流中の頼朝に嫁ぎ、頼家・実朝を生む。1199年(正治1)、頼朝の死後は父時政や弟義時と共に幕政に参与、1219年(承久1)実朝の死後は4代将軍に京都から九条頼経を迎え自ら後見人として幕政を裁断し尼将軍と言われた。1221年の承久の乱には御家人の動揺をを押さえて幕府体制の基礎を固めた。 |
| 北条正村(ほうじょうまさむら) |
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1205-1273。鎌倉幕府7代執権。父は義時。 泰時は異母兄。1224年(元仁1)母の伊賀氏は政所執事の兄光宗とはかって政村を執権とし、女婿の参議藤原実雅を将軍として実権を握ろうとして失敗したが、政村は泰時の計らいで事無きを得、1239年に評定衆、1249年に引付頭人、1256年に連署、1264年に執権となり、1268年に時宗と交替して再び連署となった。1273年に辞し入道して覚崇と号した。和歌をよくし、勅撰集にも37首のせられている。 |
| 北条泰時(ほうじょうやすとき) |
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1183-1242。鎌倉幕府3代執権。義時の子。 承久の乱には幕府軍の将として上京、引き続き六波羅探題として事後処理にあたる。1224年(元仁1)に執権。おじ時房を連署とし、翌年に評定衆を設置。1232年(貞永1)御成敗式目を定め、御家人を中核とした武家政権の確立を図った。 |
| 北条義時(ほうじょうよしとき) |
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1163-1224。鎌倉幕府2代執権。時政の嫡子。父と共に源頼朝の挙兵に従う。 1205(元久2)牧の方の陰謀により父が失脚した後を受け執権となり、1213(建保1)和田の乱を平らげ侍所別当を兼ね、1219年 (承久1)源実朝暗殺後は姉政子と共に幕政を握り、北条氏専制の基礎を築き、1221年には後鳥羽上皇を中心とする京都の公家政権に打撃を与え(承久の乱)、幕府権力を確立した。 |
| 与謝野晶子(よさのあきこ) |
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1878-1942(明治11-昭和17)。歌人。本名しょう。旧姓鳳。大阪府堺市の生まれ。 堺女学校卒。新詩社社友となり、与謝野鉄幹に傾倒、のち結婚。第一歌集「みだれ髪」では大胆な人間の官能開放をうたった。以後「明星」の中心として活躍。「小扇」ほか多数の歌集を刊行、浪漫的情操を燃え上がらせた。1912(大正1)渡仏後は「源氏物語」「栄華物語」などの古典評釈の業績も残した。 |
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