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学問の神様
鎌倉市二階堂74 |
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菅原道真公をまつった祀った神社。 九州の大宰府、京都の北野天満宮とならび著名な3大天神。 創建は長治元年(1104)と伝えられている。鎌倉時代は大蔵幕府鬼門の鎮守として崇拝された。祭神は菅原道真で、境内には道真が愛したことから天神社の象徴となった梅が約100本植えられている。本殿前の紅白一対のうち、右の紅梅は鎌倉で一番早く春を告げる木として有名。 拝殿の左手の丘の上には、地元の横山隆一をはじめ清水崑など、154人の漫画家が描いた河童のレリーフがずらりと並ぶ絵筆塚がある。 |
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鎌倉五山第二位
鎌倉市山ノ内409 |
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1282年に北条時宗が元寇で両軍戦死者の霊を弔う為に創建した。BR>
元寇にあたり時宗の精神的な相談相手として貢献した無学祖元を開山に招いた。 境内の塔頭・仏日庵には開基廟があり、時宗とその子貞時、孫高時の北条3代の木造が安置されている。 およそ七百年前、日本は文永・弘安の二度にわたる蒙古軍の来襲を受けました。この蒙古の大軍を撃退した時の執権北条時宗が、文永・弘安の両役の彼此両軍戦死者を慰霊するため、無学祖元(仏光国師)を招いて1282年(弘安5年)に創建しました。円覚の寺号は、この地から石櫃に入った「円覚経」が出たことに由来してます。 洪鐘は、1301年(正安3年)に9代執権北条貞時が国家の安泰を祈って寄進しものです。 鎌倉時代の代表的な梵鐘で、国宝に指定されています。 約6万平方メートルという寺域は、全体が史跡に指定されています。 緑深い山ノ内の谷戸に抱かれた境内には、いつ訪れても美しい花が咲いています。 度重なる震火災で創建時の典型的な禅宗様式の伽藍配置は焼失したが、北条氏や鎌倉公方足利氏満の支援により再建を繰り返した。 現在の姿は、江戸幕府による再建や復興により徐々に整えられ、現在は17の塔頭を従える荘厳な規模になっている。 |
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もと由比ガ浜近くにあった新居閻魔堂が、元禄16年(1703)の地震と津波で倒壊したためこの地に移したもので、山号は新居山。閻魔堂の中には鎌倉時代に流行した十王思想に基づいた、死後の裁判を司るという十王像が安置されている。本尊の閻魔大王像は、鎌倉時代の仏師運慶の作。 瀕死の状態になったが、衆生に閻魔の像を彫って伝えろと言われ生き返ったと伝えられる。そのため、笑いながら彫ったので、像もどことなく笑って見えるという伝説により、「笑い閻魔」と呼ばれている。 この本尊と倶生神像は国の重要文化財、鬼卒像と人頭杖(じんとうじょう)は重要美術品に指定されている。 また、十王のうち国重要文化財の初江王(しょこうおう)だけは鶴岡八幡宮境内に有る国宝館に寄託中。 |
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扇ガ谷4-18-8 |
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| 応永元(1394)年、上杉氏定が開山に空外(くうがい)を招いて創建。臨済宗建長寺派の古刹として歴史を刻んできた。本尊は啼(なき)薬師、児護(こもり)薬師とも呼ばれる薬師如来像。開山禅師が赤子の泣く声を聴いて土中から掘り出したという仏面が胎内に納められ、境内左手、安永5(1776)年に浄智寺から移築した仏殿に安置されている。仏殿脇から境内奥に進むと、岩窟中に鎌倉期の井戸「十六ノ井」がある。床面に掘られた十六の丸穴は、今も清水をたたえている。 | |
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鎌倉市二階堂154 |
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明治2年(1869年)、明治天皇によって創建されました。後醍醐天皇の第三皇子大塔宮護良親王
(1308〜1335)が祀られています。護良親王は、足利尊氏と共に後醍醐天皇を助けて、鎌倉幕府
打倒に力を尽くしました。 しかし、天皇・尊氏と意見が対立し、尊氏によってこの地にあった東光寺の土牢に幽閉された後、 殺害されました。土牢は、本殿の後にいまも残っていますが、幽閉されていたのは三方の壁に土を 塗った座敷牢だったという説が有力です。 毎年、10月8日、9日に境内で薪能が催されています。 授与所にてお守りとして授与している獅子頭は、幸運を招く民芸品として人気があります。 |
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梶原5-9-1 |
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| 葛原ヶ岡神社に隣接する公園、源氏山公園まで続く。 | |
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梶原5-9-1 |
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| 祭神日野俊基卿は鎌倉幕府の荒廃を憂い、後醍醐天皇を中心とした倒幕計画を進めるが、幕府に捕えられ、この葛原が岡で処刑された。辞世の句「秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露でうらみや世に残るらん 古来一句無死無生萬里雲 長江水清」。社殿左には「俊基卿終焉之地」の碑がある。 | |
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扇ヶ谷1 |
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| かつて源義家が後三年の役で出征の時、源氏の白旗を立て陣容を整えたことからこの山は源氏山とか白旗山、旗立山と呼ばれている。源氏の鎌倉入り800年を記念して芝生広場や遊歩道のある公園として整備された。公園の中央には高さ2mもの鎧に身を固めた若き日の頼朝像が立っている。 | |
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臨済宗建長寺派総本山 |
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建長5年(1253)北条時頼が宋から禅宗の高僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) (大覚禅師)を招き、日本最初の本格的禅宗道場として創建。 京都から移築された総門、銅板葺き屋根入母屋造りの三門、芝・増上寺の廟所を移築された仏殿、住職が説法される関東最大の法堂などがあります。禅宗様式の伽藍配置の雰囲気を比較的保っている。 あまり知られていませんが、けんちん汁は、ここ建長寺が起源。修行僧が精進汁にあやまってお豆腐をこわして入れたのが始まりでけんちん汁を漢字で書くと「建長汁」になります。 |
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長谷4-2-28 |
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鎌倉唯一の国宝仏。鎌倉大仏として知られる阿弥陀仏は、鎌倉のシンボルとして名高い。 正式には、金銅阿弥陀如来像という名で、大異山高徳院清浄泉寺(浄土宗)のご本尊。 1238年、木造で造られるが、1252年、風で倒れた為、青銅製に造りなおす。明応4年(1495)の水害で殿舎が流され、1498年、大仏殿倒壊。以後は修復せずに露座となる。完成当初は全身金箔を施した華麗な姿でした。 |
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極楽寺3-6-7 |
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| 鎌倉唯一の真言律宗の寺で、正元元年(1259)に良観坊忍性(にんしょう)を開山に、北条重時を開基に創建された。かつては金堂、講堂、塔などの伽藍と49支院を持つ鎌倉有数の壮大な寺であったが、戦禍や火災、地震などで大半は失われてしまった。貧民や病人救済などの社会事業に力を注ぎ、寺域内に施薬院や療病院、薬湯室などがあったと伝えられている。本堂前には貧しい病人のために茶をひいたという石臼や製薬鉢、飢饉のたびに炊き出しに使ったという井戸が残される。忍性はまた、極楽寺切通しをはじめとする道路や橋を造り、当時港として材木座に整備された和賀江島の管理も任されていたという。転法輪(てんぽうりん)殿では、釈迦が初めて説法した時の手の形をした、全国でニ体しかないという珍しい釈迦像や十大弟子、往時の境内図などの寺宝が拝観できる。 | |
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佐助2-22-10 |
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| 幼名を「佐殿(すけどの)」と呼ばれた源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流されていた時に、鎌倉鎮座の神霊が翁の姿で枕元に現れ、平家討伐の旗揚げを勧めた。旗揚げ後に鎌倉入りした頼朝は」、その神霊に感謝して社殿を建てたと伝えられる。佐殿を助けたことから佐助の名がついたといわれている。 祭神は銭荒弁財天社と同じ宇賀神。参道に連なる赤い鳥居が印象的。 | |
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鎌倉五山第四位 |
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弘安4(1281)年に若くして亡くなった北条宗政を弔う為に、その妻と幼子の師時が創建。 夢窓疎石や清拙正澄など代々高僧を迎え、鎌倉五山第四位として栄えた名刹だ。 時を経て、火災や関東大震災などで往時の伽藍は失われてしまった。 しかし長い歴史をもつ禅寺にふさわしく、静寂なたたずまいである。 総門前の小さな池の脇に鎌倉十井の甘露ノ井がある。 山門は唐様で花頭窓がつけられた二階に梵鐘がある珍しい造り。 境内のやぐらの中には、江の島・鎌倉七福神の一つ、布袋尊がある。 北条宗政夫人が一族の助けをえて、1281年(弘安4年)頃に起こした寺で、亡夫と幼少の師時を開基にしています。 開山は、中国の名僧兀庵普寧と仏源禅師大休正念(請侍開山)および日本僧の真応禅師南州宏海(準開山)の三人です。 仏殿にまつってある木造三世仏座像は、向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・未来の時を代表してます。裏庭の奥にある洞窟には、弥勒菩薩の化身といわれる布袋尊がまつられており、鎌倉・江の島七福神の一つです。 庭の白雲木が、5月に美しい花を咲かせます。参道右横の大木タチヒガン(さくら)は、神奈川県指定百選 の一つになっています。 また、仏殿横のコウヤマキは、鎌倉一の巨木で、鐘楼前のビャクシンとともに鎌倉市指定文化財です。 |
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鎌倉五山第五位 |
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文治(1188)年に頼朝の忠臣、足利義兼が、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として創建。 始めは極楽寺と称する密教系寺院だったが、正嘉年間(1257-59)に蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が禅寺に改め、浄妙寺と改称。数々の名僧を迎え、鎌倉五山第五位に列した。近年では、天正年間(1573-92)の茶室、喜泉庵が復興された。 |
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鎌倉五山第三位 |
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亀谷山寿福金剛禅寺は、1200年(正治2年)に北条政子が夫の源頼朝を供養するために建てたお寺で、開基は臨済宗の祖栄西禅師です。もとは頼朝の父義朝の屋敷のあった所で、墓地にあるやぐらには源実朝・北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。 外門から山門にいたる石畳のある参道は、美しい景観です。一般に公開しておりませんので、境内は山門から拝観することになります。 1395(応永2)に3度目の火災に合い、規模縮小し寺宝も多く焼失。 |
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開府以前の天平6年(734)、光明天皇の発願で創建されたと伝えられる鎌倉一古くからある寺。 現在でも板東三十三観音霊場の第一番札所として信仰され、境内にはおびただしい奉納幟(のぼり)が林立している。 秘仏の本尊は三体の十一面観音で円仁作と源信作と伝えられているニ体は国の重要文化財に指定されている。かつて門前の金沢街道を馬に乗ったまま通ろうとすると必ず落馬してしまったという言い伝えから「下馬観音」と呼ばれるが、大蔵観音や杉本観音の名でも親しまれている。 |
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鎌倉市山ノ内1503 |
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足利尊氏の菩提を弔う為に創建。 境内の観音堂は奈良県の園成寺より移築されたもの。背後の山腹には尊氏の墓という石塔があり、尊氏の遺髪が埋納されている。非公開なので、観光目的の拝観は出来ないが、精進料理¥4600を予約すれば(5人以上、子供不可)、境内の庭を眺めながら食事ができる。 |
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佐助2-25-16 |
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洞窟に湧く名水(銭洗水)でお金を洗うと倍になって戻ってくると伝えられる場所が宇賀福神社にある。 頼朝がみた夢によって見つかった霊水と言われ、宇賀福神のお告げによるものと伝えられる。別名宇賀神神社。岩から涌き出る霊水は、源頼朝が飢饉救済を祈願したところ、文治元年(1185)の巳年巳月巳日巳の刻に宇賀福神からお告げを受けたもの。金運、商売繁盛のご利益があるといわれる。 |
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雪ノ下2-1-31 |
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源氏の守り神として崇敬を集めていた。 源頼義が京都の石清水八幡宮を現材木座に勧請したのが起源とされる。 61段の石段を登りきった高台に立つ「本宮」。静御前が舞ったとして有名な「舞殿」。 源実朝が暗殺という非業の死を遂げた「隠れ銀杏」。 |
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鎌倉市山ノ内1367 |
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北条時宗の正室祝子(のりこ)が出家して覚山尼と名乗り、夫が没した翌年の弘安8年(1285)にその菩提を弔う為に開創した。 本堂の泰平殿には覚山尼像が安置され、境内背後の墓域には墓塔が有る。 江戸期まで夫と離縁したい女性が駆け込んだ寺として知られる。 幕府から縁切り寺法の勅許を得て、江戸時代まで女人救済の寺として名を馳せた。 開山は執権北条時宗の妻、覚山志道尼。弘安8(1285)年、夫の眠る円覚寺と向き合うように、この松ヶ丘の山ふところに尼寺を創建した。以来、明治6年に女性からの離婚請求が法で認められるまで600年にわたり、駆込寺、縁切寺としてその名を全国に馳せた。 その後は臨済宗円覚寺派の禅寺として歴史を重ねている。多くの女性を受け入れてきたためか、たたずまいは楚々としてやさしい。 松ヶ岡は東慶寺の代名詞となり、「出雲にて結び松ヶ岡にてほどく」などの川柳も残されている。 水月観音菩薩半跏像の拝観は要予約。また、重要文化財の聖観音立像や縁切寺としての歴史を伝える離縁状などの寺宝を展示する「松ヶ丘宝蔵」は、10:00-15:00、¥300。 |
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長谷3-11-2 |
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創建は天平8年(736)の奈良時代末期で鎌倉でも歴史あるお寺。 ご本尊は、足利尊氏が康永元年(1342)に施した金箔が見事な日本最大の木造観音像で、奈良の長谷寺のご本尊と同じ霊木から造られたので、別名「新長谷寺」とも呼ばれています。 右手に錫杖を持つ独特の姿は一般に「長谷寺式」と呼ばれます。江戸時代には、坂東三十三観音霊堂第四番札所として、参拝者が絶え間なく続いたそうです。 |
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鎌倉市山ノ内189 |
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この寺には北条時頼公墓所、上杉憲方公墓所があります。 臨済宗建長寺派で、開山は密室守厳、開基は上杉憲方。第5代執権北条時頼の嫡男・時宗が興した禅興寺。 その塔頭として室町時代に開創された。 禅興寺は現在廃寺となりました。 「アジサイ寺」として有名で、境内には約2000本のアジサイが植えられ、6月中旬〜7月上旬の梅雨時期には美しい花を咲かせる。 また、アジサイに先駆けて花菖蒲の季節には普段公開されていない本堂裏の庭園が特別公開される。 2003/6の様子 |
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