鎌倉にはいくつかの香りがあると云われます。
そのひとつが800年に渡る歴史の香りです。

鎌倉といえば、源氏や北条氏を連想する方が多いでしょう。
鎌倉は、日本初の武家政権誕生の地であるのと同時に現在は、歴史と文化のある観光地です。
日本の文献で初めに「鎌倉」が出てくるのは、和銅7年(712年)の『古事記』に「鎌倉之別」と記されるのが最初である。
また、今小路周辺遺跡からは、天平5年(733年)7月14日付の木簡と、旧鎌倉郡衛(郡役所)とされる建物跡が検出されている。
さらに綾瀬市早川の宮久保遺跡からは「鎌倉郷鎌倉里」と墨書された木簡が出土されており、8世紀前半代の相模国鎌倉郷の存在が証明される。

康平5年(1062)、奥州で安倍貞任(あべさだとう)の乱を鎮圧した源頼義は、その戦勝を感謝して京都・清水八幡宮を鎌倉に勧請(神仏の分身、分霊を祀ること)、由比ヶ浜に鶴岡若宮を創建した。この元八幡宮が現在の鶴岡八幡宮の全身である。
頼朝は鶴岡八幡宮を大臣山の麓へ移して源氏の守護神とし、若宮大路を設けて街割を整え、独自の政治・宗教都市を築いてその名を全国にとどろかせた。建久3年(1192年)征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。支配体制の基盤は、御恩と奉公の主従関係。御家人は頼朝から御恩と呼ばれる恩賞や所領を受ける代わりに、奉公と呼ばれる軍事任務に就く。御家人は戦時の際、鎌倉展と呼ばれた頼朝の元へ「いざ、鎌倉」と馳せ参じなければならない。
幕府の役所は鶴岡八幡宮東方の大倉(清水小学校一帯)に設けられ、山手の東御門・西御門・小町・雪ノ下あたりは邸宅(武将の)が多く、材木座、大町、坂ノ下付近が下町であった。 頼朝の死後は、約110年、北条氏の執権政治が続き、新田義貞によって元弘3年(1333年)、鎌倉幕府は滅ぼされた。
その後、鎌倉は東国支配の拠点として重きをなし、室町時代は鎌倉御所・関東公方とよばれた足利基氏・氏満ら足利5代によって治められたが、幕府と鎌倉府が対立。
戦いに敗れた足利成氏は、下総国古河に逃げ、鎌倉は急速に活気を無くしてしまう。
江戸時代に入ると鎌倉図絵なども出まわるようになり、観光地化は進んでいった。
明治21年、横須賀線の開通、明治33年の江ノ島鎌倉観光鉄道の開通により、風土に恵まれた避寒・避暑の別荘地として急速に発展した。
とくに第二次世界大戦後は、多くの歴史的遺産や緑が壊されたため、昭和41年には、奈良・京都とともに「古都保存法」を設立させた。
今では、日本を代表する国際観光・文化都市の1つである。

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